Open発展モデル

友人というにはおこがましいほど憧れている、モハメッドという発展と災害のスペシャリストの知り合いがいる。彼は国連や世界銀行の仕事で発展途上国を飛んで回っている。

彼は何年もアフガンの発展策にも関わっているが、最後にアフガンから帰ってきたとき:

アフガンが発展する見込みはない。資源も知識の蓄積もない状態で、どうやって発展していくのだ。発展より、「何とかやっていく策」に変えたほうがいいのではないか。


といっていた。ちょっとぎょっとしたが、考えて見たら倫理観からこんなことを言えない人がたくさんいるだけで、ほんとは同意する同業者も多いはず。

それから、彼は続けて:

今の先進国が先進国な理由は、特許著も著作権もパスポートもなかった時代に、知識と技術が広がったからだ。だから、発展モデルがどうこう言っても、今の途上国が先進国になることは難しいだろう。

と断言した。


確かにそうかもしれない。日本の急速な戦後の発展の理由も特許がゆるかったからで、企業間でコピーまがいなことが出来たからと言っていた人もいた。


僕は専門家ではないので「記述な表現」にとどめさせてもらい、「特許があるほうが良いかどうか」の「規範的な回答」は控えさせてもらいます。


著作権物はとりあえず多くの人の目に触れて、特許よりはゆるいので、該当するものはインターネットを介して合法と非合法は方法で広がっていくだろう。ある意味法律がインターネット社会に適応していないのかもしれません。それだけでなく、社会やビジネスモデルもあっていないのでしょう。

10年ぐらい前に前衛的なコンピューター・サイエンティストのブラジル人の友人が:

将来は、アーティストは作品を売るのではなく、作品を作ることでお金を貰うようになる。

って言っていました。その時は、そんなうまい話があるのかなって思っていましたが、学術書著作権物ですが、きちんと出所を示せば、かなりゆるいものだと思います。学者は学術書を売ってお金をお貰いませんが、書く行程は金銭的にサポートされています。日本では多くの学者が「本を書いて売って」いますが、海外では「本を書くのは無駄でもったいない」と思っている人が大半です。

その理由は本は買った人にしか読まれないが、電子化されて配られている学術書は、より多くの人に読まれ、引用されるからです。つまり、引用されることがその業界で有名になることで、それでさらに何かの基金からお金を貰うビジネスになっているのです。ですから、学会では一般書を売るより、学術書で有名になったほうが効率が良いのです。

このシステムにも抵抗がありますし、一般のビジネスには完全に応用できませんが、音楽や文学でも、「出所さえ示せば甘い著作権」にしたら、アーティストもさらに有名になって仕事が増える気もしないこともないですが。

Wikipediaなどの完全な著作権放棄に抵抗がある人も、これならうけいれらる人もいるかもしれません。

参考にしたブログ

そしてデジタル・コンテンツは、シェイクスピアの時代に戻りつつある。LinuxにもWikipediaにも作者はいない。シェイクスピアは、いわばLinus TorvaldsやJimmy Walesのような、すぐれた編集者だったのである。その語彙が豊富なのも、彼が同時代の最良の作品を見事に組み合わせたためであり、その意味で「シェイクスピアとは誰だったのか」という問いが愚問だ。それは16世紀イギリスの演劇を総合した集合名詞なのだ。

過去の開発と発展の話

しかし、こんなに大きく異なった製品が2年の間隔ででてくると、このラップトップを教育インフラとして使う教育政策やプログラムを考えている途上国の方は、一過性が無く困るのではないかと思ってしまいます。コモディテーなPCでいいので、そんなにイノベーティブでなくていいのでは思ってしまうのは、頭が固くなってきているからですかね。

僕の本来の役割は「研究(Research)」の分野で、彼らが頼んだのは「開発(Development)」の分野である。前からこのR&Dの関係を良く考える。開発プロジェクトをするために研究プロジェクトは必用である。しかし、歯がゆいことは「研究」だけでは「世界が変わる」所が見えないことだ。南アで研究をしていたとき、現地の人から「勉強ばかりしないで、何かしなさい」と言われたことをいつまででも覚えている。彼女にとって「研究(勉強)」は「何かしている」事にはならないのだ。