マッド・サイエンティストへのススメ:倫理観にとらわれるな!

アクティベストの問題を僕も何度か書いているが、下記のブログに書かれていることに共感する。

鯨が殺されるとき苦しむとすれば、牛も豚も鼠もゴキブリも、殺されるときには苦しむ。さらに「すべての生命を尊ぶ」ことを原則にするなら、菜食主義でさえ無罪ではない。

・・・「だったら醜い生物はほっとくのか」と思う時点で、「かわいそうの効用」が存在する。・・・つまるところ、「地球を助ける」など地球から見たら大きなお世話であり、偽善的でもある。

一部に人間がアクティベスト的な行動をとるよりは、多くの人が普段から自然と共に生活し、「自然と共に生きる人たち(漁師など)」の声に耳を傾ける事のほうが、「自然と共に、自然に生きて行く*1」事になるのでしょう。


この論議をもう少し広げたら、科学の役割とは何かとなる。サイエンスとは「To know」。つまり、「知ることへの姿勢」である。「姿勢」だから、結果が間違っていることへの責任はないが、この「知ることへの姿勢」をやめてしまっては科学・サイエンスではない。この定義は社会科学もふくめます。ハードコアな物理をやっている人から見たら、社会科学は全て偽科学なのでしょうけど、「To know」をしている限り、僕は科学とみなします。

アクティベストなどが、「科学は何を発するかにおいての倫理が要求される」といっているが、倫理観は科学者の責任ではない。7-8年前にあるオックスフォード大学国際関係学部の教授が「帝国主義時代の方が今より良かった」と発表した。このことで彼を倫理的ではないと批判した人たちがたくさんいた。この論点は的外れである。彼は間違っているかもしれないが「帝国主義時代の方が今より良かった」と知ってしまったので、それを発表する義務がある。

倫理観は常に変わる。振り返って見たら、おかしな事もたくさんある。この事に縛られていたら、「知ることへの姿勢」を貫けない。

ガリレオは、地球が動いてくることを知ってしまった。宗教界に反対されて、牢獄に入れられてもそれを言わずにはいられなかった。ダーウィンも進化論を知って、クリスチャンとして発表するのを長年ためらったが、後年それを「種の起源」としてまとめて発表した。


マッド・サイエンティストといわれても、「知ることへの姿勢」をあきらめてはいけない。クリティカル・シンキングが出来ない人たちの話など、「男女の痴話げんかと同じ」で話し半分に聞いているれば良い。

動物実験、気候変動、捕鯨問題などの議論をタブー化する動きがある。環境学が中世の宗教界のようにならないことを心から願う。

現実社会ではまず、「答えがある問題」を探すことが大事であり、そして、おかれている状態で試行錯誤しながら答えをだす。もしろん、その答えが「一番正しい」かどうかなど誰も知らないっていうか、「一番正しい」などと言えることなど無い。

「答えがある問題」探すことは本当につらい。長い暗いトンネルをくぐって、出口が全然見えてこない。「答えがでそうだ」っと思ったときに初めて、うっすらと光が遠くで見える感じがする。

建設的な討論からは、色々な事を学ぶ。間違っていると言われることは辛いが、早めに指摘されることは大事。視野が狭くなっていると、なかなか新しい考えを受け入れるの難しくなる。そんな時、きれいな右ストレートを食らうと、目が覚めて新しい考えを別の視点から見れるようになってくる。

私もオックスフォードに来たころ、学部の先生に一言こういわれました:
「いいか、ひとつ君がオックスフォードで学ぶことがあるとすれば、環境でもマネージメントでもない、それは、クリティカル・シンキングだ」。