デカイ事をさせるには「失敗する権利」をあたえる

大人になってからの勉強は効率を求めてしまうが、失敗することから学ぶことが多いです。なかなかセカンド・チャンスをくれる世の中ではないので、どうしても、失敗することを恐れてしまいます。

だから、小中高のときにもっと失敗することを恐れずに、新しいことや奇抜なことをやらせたら良いと思います。幼児を見ると、「挑戦と失敗の繰り返し」から全てを学んでいるように見えます。

いくつぐらいから「挑戦と失敗の繰り返し」を恐れるようになったのでしょう。

過程の大切さを、下記のブログはうまいことを言っていますね。

遅延学習法では「そこに至る過程がはっきりとした」「すでにうまく行くことがわかっていること」しか学べないのだ。そのどちらかが欠けてもダメである。例えばワイルズの証明以前には、フェルマーの大定理(当時は大予想)を遅延学習法で学ぶことは、証明がないので当然不可能である。また、「うまく行く」という証明があっても、過程がはっきりとわかっていないものもダメである。例えば自転車が操縦可能であることは誰もが知っているが、どうやって自転車に乗れるようになったのか筋道だって説明できるものはまだいない。自転車の乗り方を遅延学習できるのであれば、転ばずに自転車に乗れるようになるはずだが、残念ながらそうは行かない。


この過程は、唯一といって言いぐらい新しい事を発見する方法である。「挑戦と失敗の繰り返し」は帰納的推理(Inductive reasoning)と思われがちだが、演繹的推理(Deductive reasoning)で論理をつくる過程でも何度も壁にぶち当たっているはずなので、「挑戦と失敗の繰り返し」は行われているはずだ。つまり、いかなる高等な仕事や教育でも過程が大切なことは同じことだと思う。その事は過去に下記のように書いたが、「答えがある問題」を探す嗅覚を鍛えることになる。

日本の博士の数は他の先進国に比べ、実はまだかなり少ない。しかし、余剰している。その理由は日本の国や民間の企業で博士号保有者を雇う機運が無いからだ。よく「博士持っているやつは、融通がきかなそう」とよく聞く。社会が勝手にそう思っているだけかもしれない。しかし、ほんとにそうだとしたら、僕でも雇わないだろうとおもう。

現実社会ではまず、「答えがある問題」を探すことが大事であり、そして、おかれている状態で試行錯誤しながら答えをだす。もしろん、その答えが「一番正しい」かどうかなど誰も知らないっていうか、「一番正しい」などと言えることなど無い。

「答えがある問題」探すことは本当につらい。長い暗いトンネルをくぐって、出口が全然見えてこない。「答えがでそうだ」っと思ったときに初めて、うっすらと光が遠くで見える感じがする。


子供に「失敗する権利」があるように、僕らにも「失敗する権利」があるはずである。そんなことを理解してくれる組織や上司に恵まれた人は幸せだと思う。だけど、ほんとは組織や上司の方が幸せかもしれない。なぜなら、「失敗する権利」をもらったやつらしかデカイ事をしてくれないだろうから。

そして、一方では、どうしても落ちこぼれる人々に対する、セイフティネットを整備することである。 ・・・・このためには「上層」のより上層へのシフトが必要となる。新しい経済活動の創出を促進・育成するために・・・