『「温暖化に異議あり!」異論の受け止め方を考える』を読んで

パリの出張と休暇から帰ってきた。一週間近くインターネットを見ていない状態で、始めてまともに読んだ日本語の記事がこれ:


『「温暖化に異議あり!」異論の受け止め方を考える』
http://wiredvision.jp/blog/ishii/200803/200803210119.html


僕も何度か似たようなことを書いた*1が、この石井孝明氏の記事は数段良くかけている。特にこの最後の部分:

■「価値が一つになること」への危険

 私の個人的な意見を述べれば、二人の主張はテーマの設定が広すぎます。この連載で示したように、温暖化問題への対応は、「対策を行う」と「何もしない」という、どちらかを選択しなければならないという単純なものではありません。削減対策はエネルギー消費の場面ごとに、さまざまな形で行えます。自由の問題、そして費用と効果の問題はケースごとに判断を下すべき問題ですが、クラウツ大統領とロンボルグ氏の二人の異論は、まず入口で「するか、しないか」という議論を始めています。

 クラウツ大統領のように「自由の侵害」を警戒すれば、温暖化の進行によって奪われる自由をどうするのかという問題が生まれます。

 ロンボルグ氏の主張も危険をはらみます。温暖化で現在起こりつつある、そして将来起こるであろう被害を、私たちは完全に把握することはできません。今のコストのみに注目して「できない」ことを強調したら、その温暖化の進行を放置する危険な状況を起こしかねないのです。

 しかし、二人の意見から、私たちは多くの気づきを得ることができます。温暖化を止める活動は、利害関係と必ず衝突します。正しいと思うことの集積が、実は副作用として多くの問題を生んでしまうきっかけになるかもしれません。「地球を救え」という一つの価値観に流れることは、個人の自由とぶつかることになるでしょう。また、温暖化への危機感から、性急に効果を検証しない対策を行うことで、貴重な資源を無駄にしかねません。

「どんなに悪い事柄とされていても、それが始められたそもそもの動機は善意によったものであった」。ローマの英雄、ユリウス・カエサルはこのような言葉を残しています。「CO2を出してはいけない」という価値観に世界がまとまりつつあります。そこには「危うさ」がはらむことも、異なる意見を聞くことで、常に念頭に置かねばなりません。


そうそう、こんな事が僕もいつも思っていることです。極端な話で、気候変動・地球温暖化が宗教の様になってその反論を口に出せなくなるのは危険な事です。だけど、間違った「悪書」に関わっている時間が無いのも事実。




それから、付け足しの意見です。

 京都議定書を、真面目に実行すると1500億ドルものコストがかかると試算されています。それでも温暖化を6年遅らせるにすぎません。一方で、国連の見積もりで年間750億ドルと京都議定書を実行する半分の費用で、飲料水と衛生状態の改善、そして教育を地球の上のすべての国にもたらせます。「貧困のサイクルから抜け出せるようになれば、地球温暖化にも耐えられる」とロンボルグ氏は強調します。

1500億ドルの話は「Mitigation(緩和策)」と言われる「排出量の削減」だけの話だと思われます。しかし、現在の気候変動・温暖化対策は「Adaptation(適応策)」と言われる「気候変動に対応するための開発と援助」が大事だと言われています。この「適応策」を一般の開発援助プロジェクト(飲料水、衛生状態の改善、教育など)に絡めるメイン・ストリーミング(Mainstreaming)も注目を受けています。すなわち、年間750億ドルを「飲料水と衛生状態の改善、そして教育」に使う事は気候変動・温暖化対策に反しないことなのです。生活環境が向上した発展途上国は、気候変動により良く対応できるはずです。ロンボルグ氏の本を読んでいないので憶測ですが、彼もその事には触れているのではないでしょうか。


おもしろいコラムなので今後も読んでいこうと思います。