地球温暖化は本当かの論議

http://d.hatena.ne.jp/Matsuhiro/20070420

地球温暖化は本当かの論議はよく聞く、このMatsuhiro氏が紹介しているこの本もそうだろう。Matsuhiro氏の対応がクールで同感できる。先週、アメリカ人の研究者が来ていて、自分もある昼食の時、地球の温暖化反対論をメディアがどう扱うかといったことでちょっと議論した。彼女とはその前のジュネーブの世界銀行との会議から一緒で、今週もほとんど一緒に仕事をしていた。イギリスは地球の温暖化にはかなり積極的に動いている国だとおもう。それと同時に、BBCなどの報道の自由に関しても行き過ぎたぐらい守られている。そのBBCラジオで温暖化反対のラジオ番組がある。アメリカ人の彼女は、そんな番組は報道されるべきではないとの主張を曲げることはなかった。彼女にいわく、そんな番組は報道に自由ではなく、質に悪い科学であるとした。

彼女の様な主張をよく地球温暖化の研究者の中で聞くことがある。発言の自由をねじ曲げて、ある科学知識を浸透させようとする試みにはある種心配である。同じような事感じたのは、映画デイ・アフター・トゥモロー公開されていたときだ。この映画は地球の温暖化をはげしくおおげさにした映画である。地球温暖化をしっている人ならありえないストーリーである。その時、ある研究者は映画が正しいかどうかは問題ない、重要なのは人々が地球温暖化を恐れてそれを信じることだと言っていた。

これらの話から言えることは、ある人たちには地球温暖化は科学でなく宗教になっている訳である。個人的には地球温暖化が人的要因で起こっていることに疑いを持ってはいない。しかし、起こっているかどうかをの論議を差し止める、またはねじ曲げた真実で無理に洗脳するべきではないと思う。先日述べたように、科学での真実の探求には限界があるのは確かである。しかし、問題を宗教化することは、現実の問題の盲目化するのでこれも問題である。

では、どうすべできあろう。科学に対する期待をかえるべできあろう。どんな精密な気候のモデルもシュミレーションも決して真実の結末をを我々に見せることはできない*1。別のいい方をすれば、科学に意志決定をしてもらうのはやめたほうがいい。科学の結果に敬意を払うと同時に、結果にはいろいろな不確定要素が含まれていることを理解していなくてはいけない。つまり、モデルから確認(confirm) された可能性、または可能性の幅である未来にどう対応するかは我々がきめるべきだ。多くの科学情報には残念ながら間違いがある、その為盲目的にひとつの方向に進むのは問題だろう。これはイラク戦争に突き進む過程での情報の不確実性を見ても明らかであろう。あるときは地球温暖化に対しても疑うこともでてくる。さもなければ、間違った適応政策を施行して、無駄な費用がかかってしまうかもしれない。これらのお金が別の場所でもっと有益に使われることができるだろう。ただ無駄なだけでなく、間違った適応政策が何もしないより悪い結果になることもある。

僕はまだ科学の可能性を信じているので、地球温暖化の問題を宗教化して解決する必要はないと思う。地球の温暖化だからではないが、その論議もクールに振る舞うようにしたい。

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*1:人的温暖化のモデルも、それに反対するモデルもである。