ソローの『経済の本質』の批判 -- 経済学の勘違い

何だか下らなそうな環境の本を、経済学の大御所ソローが厳しく批評しているの見つけた。

 これを述べるのは一度だけにしようと思うけれど、ジェイコブスやその登場人物たちは、「経済学者」たちが何を考えて何をするのかについて、ものすごく無知をさらけだしている。たとえば初めのほうで、口の減らないハイラムは「収穫逓減の法則は間違いのない厳しいものだが、それの裏返しの法則がなければ、経済生活についてはほとんど何も説明できないんだ。その法則は、対応型代替の法則とでも呼ぼうか。人々は高価になりすぎたリソースについては、代替物を探したり考案したりする、ということだ」。これを読んだ人には想像もつかないことだろうけれど、経済学の学生は一人残らず、価格がもたらす代替効果については死ぬほど講義をうけて教科書でもくどいほど説明を受けるのだ。鶏肉と豚肉の代替、アルミとステンレスの代替、輸入品と国産品の代替、労働とレジャーの代替。こうした無知は、本書に典型的なものだ。経済の本質についての本なら、ひっくり返そうとする分野について最低限の理解はあらまほし。でも本書にはそれはない。

この部分など、環境に盲目的にに関わっている人に良く見られる間違いである。僕の回りにも何人か経済学をかじったこともなく、「経済学」を「金儲け学」と勘違いして盲目的に批判している人が何人もいる。この本は読む気がしませんが、ソローの批評は一見の価値ありです。


と言いつつ、僕も昔この手の勘違いをしていたことがあります。

おもしろいことに、経済学者と生態学者はしばしば似たような数学ツールを使う。これは一部は、数学ツール自体が限られていて他にないからでもあるし、一部は適応性主導の進化と、意識的だが盲目的な目標達成が、似たような動きを示すからだ。ただしその中身と重要性はかなりちがうことも多い。ムール貝は一部の干潮域では他の生物種を滅ぼしてしまう。なぜそうなるかを理解しても、一部の産業が東アジアに根付いて華開くのに、他の産業はかつかつで生き延びるだけ、一部は消え去ってしまうのか、というのを理解する役にはほとんどたたない。産業の進展や生死を、淘汰圧に刺激された進化プロセスとして考えても別に悪くはない。でも、それがこの知的な問題のすべてだと思いこんでしまったら、それは大まちがいだ。このスケールでの経済の動きは、文化のもたらす事業家行動の規範、投資銀行の役割、人気あるビジネススクールの講義の中身といった、ムール貝の個体群には見られない数多くのものを無視して理解するわけにはいかない。

実は学士は経済学と生物学を同時に取ったので、経済学と生態学が似たような数学ツールを使うのは知っていた。だから、何とか経済学と生態学を合わせた様な新しい経済学をつくれたらいいなと、オックスフォードにくるまで思っていました。しかし、ツールが似ているだけで、意味のある一つのモデルを作るのは不可能に思えました。だから、僕の博士にはでかすぎるトピックなので諦めました。


少し、批判されている人を弁護すると、確かに生物学な事を無視する経済学者もいるし、経済学者を勘違いしている生物学者もたくさんいます。学部時代に、この事を先生方を話したとき、統計学の先生だけが、「そうだね」って言ってくれました。実は上記に合わせて統計学の学士も同時に僕は取っています。それから、資源の限界や代替物は経済学では大事な話なのは分かるが、現実には「知ることの限界」が在るために、長期的にはどこまで考慮されているのだろう。自由主義は物事を「事後」に対応することになりやすい。共産主義な「事前」に物事を計画する。アメリカと日本の災害と健康政策を比べると、この事は良く分かるだろう。持続的可能な発展はどうしたらよいのしょう。



最後に話をガラッと変えて、この批評からの教訓:アマチュアが巨大な思想の対抗する時はそれなりの覚悟をしてください。特に海外では日本の様に「有名だったら、アマチュアでもエキスパート」になれる世界では在りません。