「環境学は誰のためか」

昨今の気候変動などを「地球を守る」といっているニュースがあるが、つまるところ環境学は人類のための人類による研究だと思う。

経済学と生態学の学位を同時に取ったが、非常に似たような論理やモデルをみた。双方とも、基本的には行動学的に論理的にマクロから積み上げるか、統計的に相関関係からマクロから入るかで似ていた。しかし、当時違うかなっと思ったことは、「主観の入り方」である。

経済学は「効用」の最大化を最も効率よく行うことを目標にしているので、環境経済学も「人類の主観」を元に語られていた。たとえば、ある特定の動物(例えば、鯨とかイルカ)を人格化又は神格化して、彼らの「効用」を考えた場合、「他の動物には与えないのか」ということになる。まだ発見されていない深海の魚や小さい虫などは完全に無視されることになる。だから、主観的にしか環境を考えられない。



しかし、当時この「主観の入り方」が経済学と生態学の環境を見たときの違いかとおもったが、色々なプロジェクトをみて、結局「環境学は人類のための人類による研究だと」一般化出来ると思う。

公害問題への研究はは論ずるまでのなく、人間のための研究。生物の多種多様性などの研究も食料保護や、医薬品の研究問題が常に絡んでくる。温暖化の問題も、もし人的活動が原因なら、人類が滅亡したらある意味解決する。過去にも温暖化や氷河期は存在したし、ほとんどの種が絶滅しかけたこともあった。しかし、10万年か100万年ぐらいしたら、多くの生物が存在する星に戻る。「きれいな地球」を思う時点でそこに主観が存在するのし、「だったら醜い生物はほっとくのか」と思う時点で、「かわいそうの効用」が存在する。


つまるところ、「地球を助ける」など地球から見たら大きなお世話であり、偽善的でもある。そんな人の良心に頼ったアピールではなく、正直に「環境問題は人類のためだけ」の問題といってしまったほうがすっきりするかもしれない。


いつの間にか、人間の活動は自然環境を別離していて、人間は人間の事をして、自然環境はどこかで保護する様に思うようになったが、エネルギーにしろ、食料にしろ、資源にしろ、自然環境に刃向かって、共存して、調整して、暮らしてきた。途上国のプロジェクトで経験するこの明確なリンクが普段の生活では盲目になっている。

環境学って「地球を守る」なんて話でなく、環境と人類のリンクを明確にするためなのかなっと今頃ながら再確認にしている。

だって、資源が無限に存在することを想定している経済学の発展モデルはいつか限界が来るでしょう。さもなくば、焼き畑農業の様に、地球の自然環境を使い切って、スペースコロニーに住むか、他の星に住むでしょうね。