「不平等や不公平な世界」もがいて進んでいく教育

曽野綾子氏の「不平等に耐え、魂の教育を不平等に耐え、魂の教育を」の記事を読んだ。

共感するところが多い。


政治や社会が、平等と公平を目指すのは当然だが、現実には必ず不平等で不公平なのである。それなのに、完全な公平と平等が簡単に入ると思わせるあまい教育をして、その状態が実現しないと、それは政治の貧困や格差社会のゆえに救いようがないほど不幸なのだ、と教えるほうがずっと残酷なのだ、と私は思って生きてきた。

現実は必ず「不平等」で「不公平」なのである。これを無理に「完全な公平・平等」にしてしまうと、共産経済のようにうまくいかない。

ゆとり教育とは何を目指したものだったのだろう。「公平・平等にレベルの低い教育」だったのかもしれない。しかし、僕らはそんなに馬鹿ではない。お金があれば子供をもっと質の良い教育を受けられる私立の学校に入れるだろう。日本のゆとり教育が基本的にいやになったのなら、もっとお金を出してインターナショナル・スクールや早期留学って方法もある。

結局、無理に「競争はいけない」、「不平等や不公平はいけない」と教えることは、もっと金銭や生まれた環境による「不平等」や「不公平」を生み出す。

曽野綾子氏は彼女のアフリカの経験も書いていたが、僕もある経験がある。

南アフリカ北部の希少金属鉱山の近くの村を訪ねた。外資の鉱業会社は道を挟んで隣にあるのだが、会社は教育を受けていない村から人を雇わず、他の地域・国から鉱夫をつれてくる。ちょうど僕が村を訪ねたある日、「ピッカ、ピッカ」の新品のベンツのスポーツカーが、舗装もされていない「ボッコ、ボッコ」の道の村に入ってきた。その鉱山の幹部などが、ちょっと道に迷ってやってきただろう。村人があの真新しいスポーツカーを見たときなんと思ったのだろう。

あそこは道一本をはさんで、「世界で一番貧乏な人達」と「世界で一番金持ちな人達」が生活をしている。

これが世界の現実、国と国の格差は国内の格差よりひどいかもしれない。きっとそうだろう。豊かな日本にも格差はある。しかし、それが乗り越えられないものだろうか。

「不平等だ!不公平だ!国が悪い!」。確かにそうかもしれない。しかし、結局、世の中は「不平等で不公平だ」。自分でその世界でもがいて進んでいくしかない。実をいうと「不平等だ!不公平だ!国が悪い!」は途上国で良く聞く言葉だ。「全てをあきらめてしまっている」、もしくは「全てをあきらめなくてはいけない状況まで追い込まれていている」−−貧困スパイラル。

日本が「貧困スパイラル」に落ち込むことはないと信じているが、「完全な公平・平等」がどこからか降ってくると教える教育は危ない。泥臭いが「努力は報われる」とか「もがいて進んでいく」のは意味があると教えたほうが数倍いい。

自分の「環境と発展」のプロジェクトも、「もがいて進んでいく」方法で出来るだけ行きたいと思う。ただ、お金を配るだけの方法は「完全な公平・平等」を推し進める方法だろう。「もがいて進んでいく」事の楽しみも知ってほしい。おこがましいですね。失礼いたしました。


「み?んな同じ日本人」という何となくホンワカした感覚から、「自分の住んでいるところは、どうなのか?」という意識に少しづつ変化してゆかざるを得ないでしょう。

現在の学習内容との差は明確。
「これぐらいは勉強してもらわなくては…」といった受け取り方がほとんどです。

豊かな生活を維持できるという環境はなくなりつつあります。それだけでは、安価で良質なBRICSの労働者たちに太刀打ちできないからです。良くも悪くも、好きであろうが嫌いであろうが、「ヨーロッパから環境事情 (オックスフォードの環境博士の日記)」さんが指摘しているような「イノベイションが出来る秀才君」が日本に必要なのです。