「XO」ノートPC次期モデルは「発展と教育」に役に立つのだろうか。

「一人の子供に一つのラップトップ」プログラムをご存知でしょうか。数年前からMITのメディア・ラボが設計した「$100ラップトップ」を途上国に配るプログラムとして計画されていて、昨年末にようやくバージョン1が完成した。そして、上の写真がそのバージョン2で2010年の立ち上げる予定のようです。バージョン1とバージョン2はかなり異なっており、バージョン2ではデュアル・スクリーンの片方がキーボードになる。クールでエキサイティングだけど、ちょっと本気で、「発展と教育」に役立つとおもってやっているのかと考えてしまいました。

「ラップトップか先生」みたいな二社選択の話ではないと理解しているし、自分も7−8歳からコンピュータをいじっていたので*1、PCがコモディテーになる利点の理解しています。

しかし、こんなに大きく異なった製品が2年の間隔ででてくると、このラップトップを教育インフラとして使う教育政策やプログラムを考えている途上国の方は、一過性が無く困るのではないかと思ってしまいます。コモディテーなPCでいいので、そんなにイノベーティブでなくていいのでは思ってしまうのは、頭が固くなってきているからですかね。


なんとなくGoogleと並んで、天才グループのMITのメディア・ラボが、2年以上同じラップトップを生産するのが我慢ならなかっただけのような気がしてしまうのですが。前回の$100ラップトップのおかげで、安いラップトップがでてきたと思うので、最低、「発展と教育」と別のところでは何か良い影響があると思います。

自分の「教育」に関しての過去の日記

生徒だけでなく先生方にもやりがいのある仕事なようで、競争率10倍で、弁護士や医者などの様に憧れの職業のようです。先生方が全員博士号を取得する制度も考えているそうです。

日本が「貧困スパイラル」に落ち込むことはないと信じているが、「完全な公平・平等」がどこからか降ってくると教える教育は危ない。泥臭いが「努力は報われる」とか「もがいて進んでいく」のは意味があると教えたほうが数倍いい。

高度成長期の時代は、大量生産の為に「質の良い労働者」が必要だったが、今は「イノベイションが出来る秀才君」が必要だ。その点を踏まえ、新指導要領・「ゆとり教育」や「博士の余剰」を見直してほしい。

*1:初めてのPCはシャープのMZ-80bです。